ホレンコの友 2013年12月号「平和が生まれた」
                  
                      日本キリスト教会
:札幌桑園教会牧師 河野行秀

クリスマスの時期になると思い出す経験があります。1973年のクリスマス・イブ、私はイスラエルにいて、エリコからエルサレムへの街道にいました。第四次中東戦争の最中でした。この戦争はイスラエルの贖罪日に始まったので、贖罪を表わすヘブライ語「キプール」と、日を表わす「ヨーム」から取って、ヨーム・キプリーム戦争と言います。
 私は友人と一緒にエリコへ行き、主イエスが試みを受けられたという山にある修道院を訪ねた後、すでに暗くなっていた街道に出ました。バスは走っていません。うまい具合にイスラエル軍のトラックが来たので荷台に乗せてもらいました。当時、イスラエルではヒッチ・ハイクは、めずらしいことではありませんでした。エリコからの急な上り坂をトラックは勢いよく上っていました。岩山に囲まれた道路を走っていたトラックが急停車しました。兵士がバラバラと荷台から飛び降り、ライフル銃を撃ち始めたのです。私は友人と一緒にトラックの床に腹ばいになっていました。数分後に「ハモール」という声がしました。暗闇に現れたのは、敵の兵士でも盗賊でもなく、ロバだったようです。
 主イエスはこの付近の山道を何度も歩かれたのでしょう。その経験から、あの「良いサマリア人のたとえ」が生まれたのだと思います。更に遡れば、少年イエスは両親に連れられ、都もうでのために、何度この道を歩かれたことでありましょうか。もっと遡れば、マリアとヨセフは、生まれたばかりの幼子イエスをつれ、ヘロデ王の剣を逃れて、エジプトまで行かれたのでした。聖書の舞台、主イエスの歩かれた中東の世界に平和がおとずれるように祈ります。
「天に栄光が現われた。その栄光が地にも現れ、そこに平和が生まれた。」主イエスは平和の子としてお生まれになられました。平和を指すヘブライ語「シャローム」は、政治的には「平和」、精神的には「平安」であります。更に、キリスト信仰的には贖罪であります。動詞形は「代価をはらう」「和解する」ことを意味します。「シャローム」は、主イエスによる罪の贖いを心に留めるとき、一層、意義深くなります。神の御子であられる主イエスは、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになられました。このお方こそ、私たちの罪を買い取るために現れたお方です。「シャローム」は、イエスの誕生の喜びを思い起こさせ、またキリストの十字架を想起させてくれる言葉です。真心をこめて「クリスマス、おめでとう」と挨拶しましょう。読者のあなたはシャロームの子です。
ホレンコの友 2013年11月号 
                        「ストップ!」
                     基督兄弟団:北見栄光教会牧師 笠見旅人

 牧師になって初めて札幌に遣わされてから、早7年の月日が経ちました。生まれも育ちも関東の私が初めて来た北国。何もかもが新鮮で刺激的に見えたのが、昨日のことのように思い出されます。ようやく半分くらい「道産子」になりかけたかな、と思っていた時に、転任の命令。慣れ親しんだ北海道ともお別れかと思いきや、さらに北に行きなさいとのこと。というわけで4月から北見の地で、牧会伝道に励んでおります。
 北見は昔アイヌ語で「ノッケウシ」と呼ばれていたそうです。意味は「野の果て」だそうで、確かに日本地図の中で見ると端っこと言えば端っこだなと。どっこい「住めば都」という言葉通りに、ここでは語り尽くせない魅力に溢れた、とても素敵な場所であります。イエス様は「地の果てにまで、わたしの証人となります。」と弟子たちを励まされましたが、その端くれとして、「野の果て」で主にある兄弟姉妹と共に、精一杯奉仕させていただこうと、決意を新たにしております。
 会議などで時々東京に行くのですが、行くたびに何となく独特の疲れを覚える気がしています。なぜなのだろうか(歳ですよとは言わない)と考えて思うことは、目に飛び込んでくる情報の数ではないかと。空港のロビー、電車内の広告、窓に目をやるとビルの壁に貼られた広告の数々…。そのメッセージは「これを買えば大丈夫。」「これを持ってないと恥ずかしいよ。」「これを手に入れられるあなたは勝ち組」というような押し売り情報の洪水。そんな洪水の中で、人々はスマフォの画面とにらめっこしながら、さらに情報の荒波の中に身を委ねる。地下道を歩いていても、人の波の流れの速いこと、どのタイミグでその急流を横切るべきか、半分道産子な私は考えて立ち尽くしてしまうのです。女満別空港に降り立って、一つ、心に浮かんだ御言葉。「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(詩篇46篇10節文語)ありきたりの社会批判をするつもりも資格も私にはありません。ただ、自分にはもっと立ち止まること、静まることが必要なのだということを強く教えられたのであります。
口を開けば「忙しい」という言葉が勝手に溢れてきそうな日常でありますが、あえて止まって、静まって、そしてラジオのスイッチを入れてホレンコのメッセージを聞いてみてください。本当に価値のある情報をまず皆さんが聞いてくださることが、福音を伝えるホレンコにとっては何よりの応援であります。この福音のメッセージが電波にのって多くの人々に届きますようにお祈り下さい。

ホレンコの友 2013年10月号
              「未来予想図」

                       日本キリスト教会北広島山手教会 牧師 秋本英彦

インタ−ネットを検索すると「2050年頃の日本」を予想しているHPがあります。そこには「人口は8000万人に減少、高齢化は世界最速で増長、経済はマイナス成長、GNPも経済大国から脱落、年金破綻、貧富差の増大、医療介護も限界」などと記されていて、暗い未来予想図しか書かれていないのに驚きました。
考えてみると、日本人はみな「物が豊かなこと、ライフ環境が整えられること」を第一にして、それが豊かで幸せな生活に結びつくと信じて生きてきた気がします。新幹線の速度、タワ−の高さなど、今も世界一の技術を誇りにしています。けれども、それが本当の幸せに繋がっていたのでしょうか。今、心静かに御言に聴くことが求められているように思います。
テモテへの手紙一6章8節には「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」と記されています。著者パウロは今を満足できない心を金銭欲や名誉欲によって満たそうとすると、そのことが人生や信仰を迷わせてしまう危険があると語っています。“上を求め続ける生き方”から、“今を満足する生き方”にこそ、本当の幸せがあることを教えている聖句ではないでしょうか。
私は40代ですが、子供の頃の日本はまだ裕福な時代とはいえませんでした。物はずっと少なかったはずです。でも隣近所とは親戚のような親しい関係で、周囲の大人からは厳しく躾けられました。学校の先生も絶対的な存在でしたし、お年寄りは人生経験の師でした。年配者が亡くなれば、近所の人みなが悲しんで葬儀に参列しました。物はなくても今よりずっと人々の心は豊かで幸せだったと思います。いつから日本人は変わってしまったのでしょうか。
聖書は、物によってだけでは心は豊かにならないと教えています。ある聖書学者が「人が修道士のような環境に置かれたら、誰もが本当の幸福を見い出すことができるだろう」と語っていました。修道士は私有財産を持たず、与えられた最低限のものを用いて生活を送っています。そこから副次的産物として修道院の文化、建物や食の美、自然医療などの充実へと発展してゆきました。物がないことが心の豊かさになった良い例です。
ヘブライ人への手紙13章5節にも、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。』」と記されています。今を満足した生き方ができるなら、人生も国の未来も違った視点から見えてくることでしょう。未来予想図が明るく描かれてゆく可能性は十分にあるのです。
ホレンコの友 2013年9月号
             「踏みとどまって」

                  
聖書:ペテロの手紙一 5章8〜11節
                           日本基督教団 中標津伝道所牧師 勝亦一江               
  
この手紙は、「ペテロ」によって書かれた書となっていますが、アラム語を主に話すガリラヤ出身の漁師であったペテロではないことは明らかです。ペテロの名をかりて小アジア北部にいる離散して生活するキリスト者に宛てられた(1章1節)ものです。しかも、ローマをバビロンと語っていることから、おそらく90年代。まだその頃、新興宗教の域にあったキリスト教、そしてキリスト者が周辺の異教徒からの、様々な迫害に直面している中で、記されたものだろうと考えられます。5章は、中でも教会の指導者としての長老たちにむけて語られている後半の部分です。
 私は、特にこの書の背後にある、その情況下が気になります。具体的な内容は語られてはいませんが、「ポントス、ガラテヤ…等各地に離散している仮住まいをしている」人たちに宛てられているのです。まさしく、時代の中で、人々の中で、翻弄されている人々へ向けられたキリスト者として生きよという内容に他なりません。中でも「踏みとどまる」ということに深くこだわっています。
 私は60半ばを過ぎて、海を渡り、北海道に来ました。何もかもが驚きで、2〜3年は「不思議の国のアリス」の意識でした。
 そして、この地では誰もが知っている北海道の名付け親「松浦武四郎」。出会った人々を通して、書を通して少しずつ深めつつあるこの人が、今生きるアイヌの方々が「松浦先生」と尊敬の念で語られるそのつながりは、涙の出るほど深く心に刻まれました。
 多くの資料と歌を残していますが、沢山の残されたうたの中で、私はいつも持ち歩いているうたがあります。
「へだてなき 春の光に 北の海の 波のはつ花 今や咲くらむ」(1870・明3)
 倭人がこの地に踏み込んで以来「アイヌ・モシリ」の地は、その人口が激減、松浦氏の奥地へ4度の旅の中、多くを道案内のアイヌから学び、寝食を共にしながら切望した願いがこの歌に込められ、胸が熱くなります。
 明治になって、新政府からは北海道をよく知る故に用いられた役を、全くアイヌへのかわらぬありように絶望、すべてを返上して、この地には二度と来なかった由…。又、道東の地が、広大な牧草地をうむまでの歴史…。
 そして、今、生きる私たちの前にある3・11の被災と人災としての原発。さらに平和を願いながら行く手は、それと逆行していっているのではないかとの不安と恐ろしさの中で、今ひとりひとり、何によりたのみ「踏みとどまって」歩こうとしているか問われているように思います。 
ホレンコの友 2013年8月号
                 
「死からの解放」
                         日本自由福音教団:清田キリスト教会牧師 小島正義

今の時代は、希望のない、不安な不幸な時代といえます。このような状況をパウロは言っています。「私は本当に惨めな人間です。だれが、この死の体から私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマの信徒への手紙7:24)
 私たちの日常は苦しみによって支配されています。それはパウロの言ってるように、まさに人間が素っ裸にされて悪臭を放っている状態です。(ローマの時代の死刑方法で、くくりつけられた罪人が死体からにじみ出る腐った汁によって体が腐っていく表現)
 このような状態は人間にとって避けて通れない迷路と言えます。そして悲惨な迷路から解き放される方法をパウロは教えています。
「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです」(ローマ8:1〜2)
 私たちがどのような苦境にあっても、イエスさまのあふれる生命が苦痛の鎖を断ち切って素晴らしい解放への救いを与えてくださるのです。
 それは私たちの生命を支えている空気が、血管を通して心臓に酸素を運んでくれるようにです。神の御言葉は、“生命の御言葉”となって、私たちの体と心を支えてくださっているのです。
 これはまさに神の神秘的な奥義といえましょう。そして大いなる恵みと祝福なのです。
 私たちは今、どんな苦しみにあっても、やがて神のもとに帰るときまで、約束してくださった神の御言葉を信じ、深く感謝し続けて参りましょう。
ホレンコの友 2013年7月号
               
「主イエスキリストを信ず」
                    日本ホーリネス教団札幌教会 牧師 石井 栄治

私たちが毎週の主日礼拝で告白する使徒信条には、「我はその独り子、我らの主イエスキリストを信ず」という一項目がある。使徒信条は三位一体の神を告白する構造になっている。天地の造り主、全能の父なる神を信じ、子なるキリストを信じ、聖霊なる神を信じる。この中で、御子なる神キリストに関する告白が一番長い。御子の誕生、十字架、復活、昇天、再臨など、キリスト論に関する全ての要素が網羅されている。「我らの主イエスキリスト」は、「神の独り子」でいらっしゃる。「独り子」とは、一人とか二人とか、数の問題ではなく、父なる神と子なるイエスとの関係において、次のような三つの要素が含まれていることを言う。
 その一つは、「最愛の子である」という意味である。最高に愛する子という意味で、これ以上ないという父なる神の愛の表現である。子なるイエスが洗礼を受けられた時と変貌の時に、天からの声としてこの言葉が語られている。
 二つ目は文字通り、「ただ独り」、「唯一」という意味である。その昔、アブラハムはとてつもないことを言われた。待ちに待ってやっと与えられた最愛の子イサク、その独り子を全焼のいけにえとして献げよと。これこそやがてゴルゴダの丘で、神の独り子イエスが十字架につけられて殺されることの予表であった。
 三つ目は、「神に選ばれた者」という意味である。イスラエルが神の選民として選ばれたのはなぜか。それは神様のなさることだから、とやかく言う筋ではないが、その選ばれた民族の中からメシア、キリストが来られたことは紛れもない事実である。変貌山の記事の中で、「これは私の子、私の選んだ者である」と言っているのはルカだけである。(ルカ9章35)
 ホレンコは今日まで50年以上に亘って、この純正なキリスト教の福音を伝えてきた。ラジオの電波を使って、北海道の隅々にまで、私たちが一生かかっても行かれない所にまで福音は届けられてきた。多くの祈りと尊い犠牲によって大空に向かって放たれた福音の種が、雨や雪が天から降ってくるように、誰かの心に落ちるように願わずにはいられない。おちた所が良い地であれば、百倍、60倍、30倍の実を結ぶだろう。私たちの教会にも、良い実を結すんだ人が何人もいる。有り難いこと、感謝なことである。
ホレンコの友 2013年6月号
            「弱いときにこそ強い」
      
           日本バプテスト同盟札幌北野キリスト教会 牧師 田中ゆかり

弱さと強さは、一般的に考えたらまことに相反する意味を持つ言葉です。そして弱さは良くないこと、だめなこととして捉えられることが少なくありません。「そんな弱音を吐いてどうする、弱気でどうする」という言葉を投げつけられなかった人を探すのは、難しいかもしれないと思うほどに。逆に、強さは良いこと、強い方が優れているという考えが世間(「教会用語」でいう所の「この世」)の常識になっているのではないでしょうか。けれども主は使徒パウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二、12章9節)とおっしゃいました。その御言葉によってパウロは「わたしは弱いときにこそ強い(からです)。」(同10節)と言い切ることができました。
 私たちは、これらの御言葉をどのように受け止めているでしょうか。主の恵みを「もっと、もっと(恵みがほしい)」、「まだまだ(恵みがあるはず)」と思い、自分にとって都合の良い願いばかりを祈ってしまったり、自分の弱さを恥じ、自分には何の価値もないと思い込み、自分で自分に絶望したりしてはいないでしょうか。あるいは、自分の弱さから目をそむけ、無理をして強く見せようとしてはいないでしょうか。
 万物の創造主である神様は、旧約の時代から私たち人間に「わたしの目にあなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し……」(イザヤ書43章4節)と語りかけてくださいました。さらに「(神は)その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書3章16節)のです。この神の愛は私たち人間がどのような状態、状況、心境であっても決して変わることはありません。その変わらぬ愛を信じ、その愛に感謝し、応答する術に思いを巡らせるとき、私たちはまことに「弱いときにこそ強い」者とされるのです。そうは言っても、困難な状況にあるとき、悲しみの真っただ中にいるとき、神様の愛を思い、それを信じることはそれこそ困難であるのかもしれません。しかし、神様はそのような状態にある私たちをもご存じなのです。だからこそ、私たちは「弱いときにこそ強い」者として生かされ、歩んで行くことができるのです。
 「弱さ」を肯定的に捉えることは恐らく多くの人々にとって、まことに大きな発想の転換となるでしょう。神様はそれを今、私たち人間一人一人に迫っておられるのです。

ホレンコの友 2013年5月号
        「語り続けられていること」
                  
日本キリスト教会発寒教会牧師  八田 牧人

 
今から9年前、2004年にアフリカのガーナの首都アクラで開かれた世界改革教会連盟総会で、アフリカの諸教会が中心となって「経済的正義の主張」を中心に控えた「アクラ文書(信仰告白)」が発表されました。でも、と当時、思いました。日本の教会が「経済的正義」を主張しても通じるのだろうか。多様化している現実の社会や私たちの生活と問題意識に対して、理想や理念ではない正義が通じるだろうか、と。その懸念は間違っていました。
 チョコレートの包装紙に「フェアトレーディング」と書かれたものがあるのをご存じでしょうか。値段は少し高いと思います。実はこのマークは、21世紀のこの時代に、西アフリカ・黄金海岸一帯で子どもが一人1.700円ほどで売買されており、欧米に輸出するための価格競争に勝てる原価を生み出すために極限的に安価な労働力としてカカオ農場に売られ、何十万人もの子どもが奴隷のように働かされていることを止めさせるために、企業自体が原価を低くする競争を止めることでコストが自分にかかっても、この現代の人身売買を止めさせようとする運動に協力している印なのです。日本でもこのフェアトレード運動は行われています。そして、何と、この人身売買の報道は2001年にすでに報道されていました。
 経済的正義は人の命に関わっていることが理解され、呼び掛けへの応答も始まっています。事実とそれに対する真摯な対応が起こっていても、その意義が掴めるまでに多大な時間が経過してしまうものです。アクラ文書を読んでいながら、自分のボンヤリさ加減が情けなくなります。アフリカの教会代表に会った時、その申し訳なさを伝えたことがあります。ところが彼は、理解するまで時間が掛かったことを恥じる必要はない、それよりも語り続けたことが通じたこと、理解されたことを一緒に喜びたいと言うのです。直ぐ解るのではなく必ず解ってもらえると信じていたから語り続けてこれたのだと。
 教会が語り続けて来た「聖書のことば」は、他を非難したり排斥したりするものではなく、喜び合い励まし合うのものでした。主イエスのことばに従って生きることは、実際の出会いの中で喜びと感謝のうちに実行されるのです。教会の宣教は、語る者も聞く者も、互いに理解し、励まされ、「直ぐではなく必ず」通じると信じて語り続けて来たものなのです。このことは、ペンテコステ以来変わってはいないし、現在も続いています。私たち自身も、教会を通して、ホレンコを通して、いよいよ聖書のことばを信じて聞き、また語り続けたいものです。
 ホレンコの友 2013年4月号
                  「悪霊の正体」

               
日本キリスト教団興部伝道所 牧師 伊藤大道

 
聖書には悪霊(聖書の言葉で「あくれい」と呼びます)に取りつかれた人が何人も登場します。マルコ福音書5章にはゲラサという地方で、大勢という意味のレギオンという名の悪霊に取りつかれた男が、人里離れた墓場に追いやられていました。また、ルカ福音書11章の「ベルゼブル論争」と呼ばれる個所では、悪霊によって口を利けなくされた人が出てきます。イエスはそうした人々を、神の名の権威によって癒しておられます。いわゆる悪霊追い出しという行為です。
ところが、いくつかの悪霊追い出しの場面では、その癒しを目撃した人々が、イエスの行いに対して非難めいた言動をとることがあります。癒していただいた本人は喜んでいるのに、周りの人は逆に憤慨しているのです。これはなぜでしょうか。
現代の医学的見地からすると、悪霊とは当時の人にとっては不可解だった病やしょうがいを表す言葉であると言えます。しかし、視点を変えると、そこには悪霊の正体の別な姿が浮かび上がってきます。
たとえば、レギオンに取りつかれた男は、確かに何らかの問題を抱えていたかもしれません。けれども、彼をさらに苦しめることになったのは、そうした問題を抱えた人に手を差し伸べないで、逆に墓場へと追いやった町の人々の悪意と無関心でした。そうした、たくさんの人々の悪意が、レギオンの正体と言えるのではないでしょうか。また、ベルゼブル論争においては、口が利けない人が登場しますが、彼は圧倒的な多数の意見が支配する社会の中で、黙殺された少数者の声なき声を象徴していると言うことができます。彼に口を利けなくさせていたのは、多数の側の圧力でもあったのです。
イエスの悪霊追い出しは、そうした他者からの悪意や抑圧に苦しむ人を解放する行いでした。それは同時に、その人を苦しめる原因となった周囲の人々の罪を暴きだすことにもつながります。だからイエスの癒しを目撃した人々は、自分の罪を見せつけられる結果となり、イエスに対して反感を持ってしまうのです。
この悪意や抑圧という名の悪霊は、時代を超えて現代でもなお、大きな力をふるっていて、それによって苦しめられている人は決して少なくありません。その悪霊に立ち向かうために必要なことは、相手に寄り添い、その苦しみを理解することです。そのようにして、私たちは悪霊追い出しというイエスの愛の業に参与していきたいと思います。                 
ホレンコの友 2013年3月号 
          「ラジオを通して福音を伝えるために」
             
日本キリスト教団小樽聖十字教会 牧師 小栗昭夫

 先日、所用で車を運転しながら車内に流れているラジオを聴いていました。すると、出演者が「一月行く、二月逃げる、三月去る」という言葉を引用しながら季節の話をしていました。この時期には時折り耳にする言葉なので、あまり気にも留めずにそのまま聞き流していました。ところが、用事を済ませて帰る車の中からも別の番組のパーソナリティが同じ言葉を引用して語っていました。確かに1月から3月まではあっと言う間に過ぎて行くなぁ、などと思いを巡らせているうちに、「…そういえば、ホレンコの一年間はどうだっただろうか」と改めてこの一年間の歩みを振り返るひと時を持つことになったのでした。(…とは言え、運転中のことですから、大層な思索が出来たわけではありません)
 ホレンコの活動目的については『北海道のクリスチャンの協力でまだキリストを知らない人々にラジオを通して福音を伝え、その人たちがキリストを受け入れ、信仰の交わりに入るように働くことを目的としている』と53年前の設立時の事業概要に記しました通り、その目的を実現するために、全道で活動しているおよそ20の教派教団や単立教会、或いは諸団体等がずっと変わらずに経済的、人的支えをもって応援して下さっています。
 そして今年度は、7つの教派教団等から送られてきた牧師、信徒の方々が幹事会を構成し、放送部会と運営部会に分かれて活動してきました。同時に、これらの活動がスムーズに進行できるように3名の姉妹たちが常勤スタッフとして事務所に詰め、放送番組制作や機関誌発行、財務管理、渉外等々全ての必要を担って下さっています。その他、テレホンメッセージ、通信講座担当、機関紙発行ボランティア、朗読ボランティア等々多くの方々がご奉仕下さっています。そして何よりも、活動のメインであるラジオ放送の出演者も超教派の奉仕者が年間を通して全面的に応援下さっています。
 これほどの貴い応援とお支えを頂きながら全道各地へ福音をお伝えしているのですが、幹事会一同の祈りは、更なる活動のための財政的な基盤が弱くなっており、ここ10年間は財源が減少し続けていることなのです。幹事会でも53年間続いてきた福音の灯火を消すことなく何とかして輝かせ続けたい、との祈りをもって放送時間の縮小などでしのいできました。今、私たちは、主が全てを導かれることと信じ、北海道で唯一の自前のラジオ伝道活動の灯火が輝き続けるよう、全道の皆さまの更なる執り成しの祈りに支えられて新たなる年に向うべく備えています。そして何よりも、この1年間の皆さまの暖かいお支えと励ましを心より感謝申し上げます。ありがとうございました。  
ホレンコの友 2013年2月号 
         「人はパンだけで生きるものではない」

                  日本キリスト教団真駒内教会 牧師 田中文宏

 そろそろ立春を迎えます。日ざしものびて、厳しい寒さの中にも少しずつ春の訪れを感じる季節になりました。
 さて、マタイによる福音書4章4節は聖書の中でも有名な言葉の一つです。私たちにとって日毎の糧であるパンは生きていく上で必要なものでありますが、それだけでは十分ではありません。クリスチャン作家の高見沢潤子さんの本に、次のような楽しいエピソードが記されていました。ある夜の団欒の時、「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉について話し合っていたところ、「そうそう、お酒も必要だよ」と口を挟む人がいました。高見沢さんのご主人である田河水泡さんです。田河さんは、戦前「ノラクロ」で多くの人々に親しまれた漫画家ですが、熱心なクリスチャンでもありました。勿論、お酒も人の心をなごませるものではありますが、イエスさまの真意とは少々異なっています。
 実は、この言葉は荒野で悪魔の誘惑を受けたときに語られたものであります。イエス様は、40日の間断食をされました。空腹のあまり眩暈がしそうです。すると、悪魔が来て、イエス様に言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)おそらく、荒野の石が焼きたての美味しそうなパンに見えたに違いありません。しかし、この誘惑をイエス様はきっぱりと退けたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)つまりイエス様は、パンの必要性を十分に認めつつ、それと同時に神様の言葉の大切さを教えたのです。
 日本の社会は「失われた20年」という言葉に表されているように、厳しい経済不況に直面してきました。近年ではネットカフェ難民という言葉が流行し、厳寒の北海道にもホームレスの人達が見られるようになってきました。貧富の拡大や、仕事のない若者が増えています。殺伐とした社会の中で、多くの人達が心の病気に苦しんでいます。このような時代に生きる私たちにとって、日毎の糧であるパンとともに、心の糧である神様の言葉は必要欠くべからざるものではないでしょうか。
ホレンコの友 2013年1月号 
             「罪の赦し」

              日本バプテスト連盟:平岡ジョイフルチャペル牧師 笠井元

 罪の赦しはどこからくるのでしょう。…「罪の赦し」。
それは神様の自由な恵みを伝える素晴らしい福音の喜びです。皆さんは、どれほど罪の赦しを自分のこととして理解し、実感しているでしょうか。私は牧師として、罪の赦しを語り、福音の恵みを伝えながらも、自らは、なかなか生活の中で、その「喜び」「恵み」を受け取った者として行動ができていない気がしています。
たとえば、妻とのケンカの中で…私は許すことがなかなかできない時があります。それは許すことができないだけではなく…(特に怒っていると)…妻に対して「本当に何が悪かったのか分かって、謝っているの?」と言ってしまったり、「そんな言葉では許せない」と言ってしまうことがあります。子どもには「悪いこと、間違いをしたらお互いにあやまろうね」また「お互いがあやまったらゆるそうね」と言って教えていたはずが…自分のこととなると難しいですね。
自分自身を振り返り、反省するばかりです。
神様の赦しは、もっともっと大きなものです。
神様の赦しは、そんな私たち人間を、私たちが謝る前から、赦すことを決めてくださったのです。私たち人間が「あやまる前」にです。「ごめんなさい」と神様に向かう前に、どれほどの罪も、間違えも赦されているのです。愛してくださっているのです。
もしも、私たちが神様の前に一つ一つの罪を数え、自分の間違えをすべて並べていかなくてはならないとすれば、そして、神様にすべての罪を謝り、すべての罪が赦されるための「行い」が必要であるとすれば、私たちは、果たして赦されることがあるのでしょうか。自分の罪の償いを行いによって負いきれるでしょうか。
神様は、そんな私たち人間を愛されたのです。私たちに「命」を与えてくださったのです。神様は、私たちの罪のすべてを、私たちが何かをするのでもなく、ただただ一方的な愛の御業、一方的な赦しとして示されたのです。これが私たちの神様です。「神様の赦し」。それは神様がキリストを通して示された大きな愛、神様の自由な恵みであります。それは、まさに一方的なものです。これほど大きな愛があるのでしょうか。
私たちは、神様の愛、イエス・キリストを通して与えられた赦しの恵みをただ感謝して受けていきましょう。それが私たちの生きる道です。神様からの恵みを喜ぶ時、そこにすでに「悔い改め」は始まっています。だからただ赦しを受け取り、恵みを喜び生きていきたいと思います。