ホレンコの友 2012年12月号 「今こそホレンコの働きが必要な時」
                         日本キリスト教会:札幌白石教会牧師 斎藤 義信

12月ですが、クリスマスの華やかさに浮かれていてはなりません。
 昨年3月11日(金)の東日本大震災のために、地震、津波、原発事故による被害が発生しました。特に原発事故に関しては、原子炉内の様子や放射性物質の拡散の動態が分からないだけではなく、情報も操作されています。震災後1年以上を経過した今日でも、私たちは未だにその被害の大きさと深刻さを把握出来ていません。原発事故が収束していないのに、新しい原発の工事が再開されています。一体どういう事なのか首を傾げている間に事態はどんどん進められています。なぜ原発推進にこれほどこだわらなければならないのか不思議でしたが、原発推進側の人々の隠された意図が見えて来ました。原子力規制委員会設置法の付則に、その目的として「我が国の安全保障に資するため」と記されているという事です。どういう事かと言いますと、原発問題は単にクリーンなエネルギーを確保しようという事よりも、むしろ核兵器保有の担保を確保しておこうという軍事問題だという事です。私たちは原子力の平和利用は良い事だと、原発の安全神話に乗せられていたわけです。
 今の私たちの生活においては、原発による電気が大きな比重を占めている事が事実ですし、原発との関わりで生計をたてている人たちもたくさんいます。このような状況の中にあって、ただ原発反対と言って、同じ人間である仲間を簡単に切り捨てるべきではありません。今や原発問題は私たちに複雑な問題提起をしています。
 原発に賛成か反対かを意思表示することも必要ですが、それよりも、どんな状況の中にあっても聖書の御言葉にたって行く事が一番大事な事です。かつて教会も国家の政策にまんまとのせられて、戦争に協力するという過ちを犯しました。今はあの時と同じような過ちを繰り返してはなりません。教会の預言者的つとめに立って、私たちの国が何をしようとしているのかを良く知って、国が間違った方向に進まないように「見張りのつとめ」を果たしながら、国のために祈る事が必要です。
 私たちの目には見えなくても、現代の時代のただ中に神のたてられた秩序があります。神のなさっている事に注目しつつ、私たち一人一人の日常の生活が御言葉にしっかり根ざしたものになっていくようさらに努力しなければなりません。
 このような時ですから、御言葉をより多くの人たちに伝えているホレンコの働きが少しでも長く続けられてほしいと願っています。
ホレンコの友 2012年11月号「友なるイエスの声を聞く」
           日本福音キリスト教会連合(JECA)グレースコミュニティ牧師 益田 結

イエスは私たちを「友」と呼んでくださっています。
   ヨハネ15:15「わたしはあなたがたを友と呼びました。」

 私たちはかつてみな罪の奴隷でした(ヨハネ8:34)。自分でしたくない悪、罪を行っていました。そしてその罪と咎に縛られ、苦しみ、決して自分の力ではそこから抜け出すことができないものでした。ゆえに私たちはみな罪の奴隷でした。
 そこに一方的に救いの手が差し伸ばされました。それがイエスキリストの十字架です。ゆえにイエスキリストの十字架の死と復活を信じるものは罪の奴隷ではなく、神のしもべとされたのです(ローマ6:17-18)。なんという恵みでしょうか!自分ではどうすることもできなかった罪に対して解決が与えられたのです。私たちが何かを行ったり払ったからではありません。一方的に与えられたのです。罪の奴隷であったものが、神の奴隷、神のしもべとされたのです。
 そして、今や、イエスは友を求めておられます。しもべではなく友を求めておられるのです。これはキリスト者の成熟を主が求めておられるということです。しもべと友の違いは、その心を知っているかどうかです。しもべも友もその主人の声を聞き、従うことができます。この点において同じです。しかし異なる点はその主人の「心」を知るかどうかです。イエスは、イエスの心を知り、イエスのことばを行う友を求めておられます。
 キリスト者は多くの声の中から主の声を聞き分ける必要があります(ヨハネ10:3)。現代はイエスのことばに反する沢山のことばで溢れています。その中で私たちはどのように友なるイエスの声を分けることができるのでしょうか?
 多くの人が集まる雑踏の中でも、家族、友人の声を私たちは聞き分けることができます。それは、いつもその声を聞いているからです。たとえ何百、何千、何万の他の声があったとしても、その声を聞き分けることができます。それは、いつもその声を聞いているからです。私たちがイエスの声、心を聞くことが難しいのであれば、その問題は、邪魔する他の沢山の声があることではありません。私たちがいつもイエスの声を聞いていないことが問題なのです。いつも、友なるイエスの声を聞きましょう。イエスは、イエスの声を、イエスの心を聞く友を求めておられます。


ホレンコの友 2012年10月号 「神の経綸」

        
 日本聖公会 平取聖公会副牧師 司祭 パウロ 内海信武

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。……わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。……海は二つの扉を押し開いてほとばしり母の胎から溢れ出た。……しかし、わたしはそれに限界を定め二つの扉にかんぬきを付け……」(ヨブ記38章1〜10節)
 昨年の8月と12月そして今年の7月と、3度にわたってわたくしは三陸の釜石へ派遣されました。同地にある聖公会の教会と付属の保育園には定住の牧師が居られないため、震災勃発後の4月より交代で同労者が送られているのです。
 あれからもう一年半が経ちましたが、あのときの記憶にはまだ生々しいものがあります。東北各県の地方新聞の多くが、また個人が、津波の記録写真集を出版しました。その中に、強い引き波によって海岸から数キロ先の海底があらわになった光景がありました。それを見た瞬間、脳裏をよぎったのは標記の「ヨブ記」でした。
 無秩序の象徴である海が、神によって定められた限界を越えて暴れだしたのですから、多くの人はまさに「神も仏もあるものか」と思ったことでしょう。わたしたちも、それは無理からぬ思いだ、とも考えます。
 確かに人は生きる限り、さまざまな苦悩に遭遇します。そして、その原因が除かれるならば言うことはありません。でも、神の顕現に接したヨブがそうであったように、それが除かれることはなくとも、『神への信頼』を告白できる人もいるのです。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」(42章5〜6節)と。
 しかし、このような境遇に自力で、完全に達することができるのはごく限られた人です。そこで、神はキリストの十字架と復活を通して、ヨブの悟りの正しさを全ての人に示されたのです。
 「経綸」という言葉は漢語で、国の施策、それも主に経済政策のことを意味するものです。当然、聖書でこの言葉を訳に用いたのは、神の天地創造のご計画のことを指し示すものです。従って、ちっぽけな、限られた存在であるわたしたち人間の思いが及ぶところではありません。でも、その上であえて主に告白いたしますならば、「キリスト・イエスの降臨こそが神のご経綸の際たるものであります」―とこのように。

ホレンコの友 2012年9月号「神の国のアスリートは」

          日本キリスト教会 札幌豊平教会牧師 稲生義裕

オリンピックの多彩な競技をテレビ観戦していると、一流アスリートの技と集中力に思わず引き込まれ、感動を覚えました。しかし一方で、極めて残念な舞台裏を幾度も垣間見たのが、今回のオリンピックでした。怪しい判定の裏に横行する贈収賄が、大多数の選手の真剣な競技姿勢を愚弄する中、審判員とグルになって反則行為に走る選手さえ現れたことは、フェアであってこそ尊いスポーツの祭典であり、平和の祭典とも言われたオリンピックが、既に「お金まみれ」であることを世に知らしめました。お金は、神より賜るそれぞれに異なる賜物や糧を、私たち人間が分かち合い流通させるための道具でなかったのか? しかし今や「お金こそ人生そのもの」と考える人間が世界を覆っています。
「神を畏れず人を人とも思わない」物質主義に浸り切った人間の心を操るには、実に賄賂ほど有効な手段はありません。ルカ福音書18章1〜8節のイエスのたとえ話には、『神を畏れず人を人とも思わない裁判官』が登場します。一人のやもめが訴え出ても、この裁判官は取り合いません。物質的利益をもたらさない訴えには無関心なのです。やもめは隣人の善意によって日々の暮らしをたて、彼女には裁判官に握らせるお金の持ち合わせはありません。権力や暴力、あるいはお金といった、人の心とこの世を操る手段を持たないやもめは、社会では弱者と呼ばれ、彼女に残された道は、「今、聞き入れて下さい」と、うるさがられるほど訴えることしかありません。
ところでルカは、イエスがこのたとえ話を弟子たちに語った目的を『気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため』(18:1)と記します。
この何も持たないやもめの姿は、神の前に絶えず祈ることを必要としている人間の姿を表します。祈りは、取引を可能とする何物をも持たない自分が、更に自分自身をも捨てて、己を空にして、聖霊を御子キリストを「今、来りませ」と招き入れる営みです。神の国(御子キリストのご支配のもと)では、この地上における利益や賞賛を求めず、神を崇め人に仕える者に、地上の金メダルとは比べようのない「賞」(フィリピ3:4)が与えられます。私たちは、神の国のアスリート。ゴールを見上げて進みます。
ホレンコの友 2012年8月号  「愚かな強さ、弱い強さ」
                 
        
 札幌バプテスト教会副牧師 石橋 大輔
     
最近の子どもたちが骨折をしやすくなったのは、骨が硬くなったからだと聞いたことがあります。骨が硬くなると、柔軟性がなくなり、しなやかさがなくなるため、力が加わるとすぐに折れてしまうということのようです。私はよく、確固たる信念を持ちたいと願うことがあります。誰から何を言われようとびくともしない信念を持ちたいと願うのです。それは、ある時にはとても大切なことかもしれませんが、そうやって強い信念を持つこと、なにがあってもびくともしないほど硬くなることは、いかにも強くなったようでありながら実は逆にもろくなっていっていることなのかもしれません。
聖書には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」(Tコリント1:25)という不可解な言葉が出てきます。神が愚かとは、神が弱いとは、一体どういうことでしょうか。
先日、ある教会員を見舞いました。初めての出産を控え、数か月の入院を余儀なくされていた女性です。バリバリのキャリアウーマンとして働いていた彼女は、ベッドの上で絶対安静を言い渡され、その動けないということに、どうしようもなく落ち込んでいました。見舞いに行った私たちの顔を見ただけで、一緒に話し讃美歌を歌っただけで、一緒に聖書を読みお祈りをしただけで、彼女の目からは涙がポロポロとこぼれていました。でも、その彼女の涙に、私はそれまで彼女から感じたことのない「母の強さ」を見た気がしました。そして、それはまさに「弱い強さ」とも呼ぶべきものだったのです。子どもに対していつも気丈に振る舞うことが、子どもの前ではいつも正しくいることが、そんなことが母の強さではない。いつボロが剥がれて、子どもにばれてしまうんじゃないかとビクビクしながら保っているようなものが、母の強さではない。子どものために、ある時にはじっと耐えながら、涙を流す。そんな弱さの中にこそ、愚かさの中にこそ、私は「母の強さ」を見た気がしたのです。
どんな時にも信念を貫き通す、何が何でも自分は正しいんだと思う、なんてことほど危ないことはないのかもしれません。傷ついたり傷つけたり、間違ったり正しかったり、失敗したり成功したりするのが人生です。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」と語られる神様が、私たちに与えて下さる強さとは、どのような強さなのでしょうか。結果や効率が重視されるこの現代社会において、私たちはしばし立ち止まって考える必要があるのかもしれません。


ホレンコの友 2012年7月号  「ちょっとしたこと」マルコによる福音書4:30〜32
                 
         日本キリスト教団 新発寒教会牧師    清水和恵

「小さなからし種が成長すると大きくなり、空の鳥も巣を作るほどになる。」イエスはからし種のたとえをとおして神の国を語りました。
この種とはなんでしょう。小さなものですが、神の国のたとえですから、愛と正義と平和を表しています。そしてそれは私たちの生活のただ中に、人と人の間にまかれていくのです。その種は、小さなものであってもやがては大きくなって現実のものになっていく希望をこのたとえは伝えています。 
私たちのちょっとした親切や助けは、からし種のようなものかもしれません。けれども誰かの窮地を救うことがあります。また、なにげない小さな関わりが自分の想像をはるかに超えて道を開くことがあります。
 昨年、東日本大震災支援ボランティアに参加し、岩手県大槌町に赴きました。ボランティアに先立ち数日間、専門家による様々な角度から講習を受けたのですが、そこでの学びは私のボランティア観を覆えしました。「ボランティアをする人というのは、自分のことよりも他人を優先するような人格者であり、その行為は崇高で偉大で貴いもの。ましてや不器用な私にできることがあるのだろうか。」と思っていました。
しかし教えられたのは、ボランティアはだれでも出来るし、いろいろな活動があり、その人にできることをすればよいということでした。例えば落ちているゴミを拾うのも、道に迷った人に行き先を教えるのも貴いボランティア活動であり、私たちが普段何気なくしていることです。大切なのは、一人ひとりのほんのちょっとの思いやりと勇気と行動にあるようです。
 ボランティアの源流はキリスト教をはじめとする宗教にあり、ボランティアの理念は聖書のメッセージに影響されていることも学びました。ボランティア活動はイエスの語った神の国がベースになっているのです。ですからボランティア活動は神の国を具現化するものといっていいでしょう。
みんなが平和に生きるために何ができるでしょうか。3・11の大地震以後、先行きの見えない不安が私たちを覆っています。しかし神の国は私たちのちょっとしたことからだんだん実現していくのです。「一人の百歩より百人の一歩」という言葉があるように、エキスパートの専門技術を活かした実践も必要ですが、そうではない人のほんのちょっとの行動がたくさん求められているのです。少しづつでも、からし種を蒔いていきましょう。

ホレンコの友 2012年6月号  「協力して福音宣教をし続ける」

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 (使徒の働き 1章8節)
                  
        日本ナザレン教団 札幌教会牧師      古川修二

 旧約聖書を読む時に示されることの一つは、神の特別な霊の働きは、特別な人に、特別な時に、特別な場合に与えられていたということです。しかし、すでに旧約聖書の中に預言されていたように、新約の時代においては、神の霊は主イエスを待ち望むすべての人々に平等に、豊かに注がれます。今、私たちは、神の豊かな恵みの時代に生かされています。福音放送を通して、その働きにすべてのキリスト者が、祈りと献金と奉仕をもって参与することができることは、なんという大きな恵み、喜びでしょう。
最初、キリストの弟子たちは、自分たちのことしか考えていませんでした。弟子たちは、少なくとも自分たちの国のことしか考えてはいなかったようです。しかし、主イエスは、神の福音はイスラエルの人々の一部に留まることなく、イスラエル全土に、世界に、地の果てにまで届いていくのだとお語りになられたのです。主イエスを信じるものたちの働きを通して、神の救いの働きが世界の隅々にまで伝えられていくというメッセージがここに語られています。
何よりも大事なことは、主イエスが受けておられた同じ神の霊の力が、主イエスを信じる弟子たちの上に注がれたように、主イエスを信じる現代の私たちの上にも今、同じように注がれるという約束です。キリストの弟子とされた人々は、聖霊の力を受けて、まずエルサレム、つまり最も身近なところから、そしてユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでキリストの証人としての歩みをしていきました。「使徒行伝」自体がそのことを、物語っています。1章から7章までは「エルサレム」での宣教。8、9章には「サマリヤ全土」への宣教の広がり。そして10章から28章には「地の果てにまで」及ぶ宣教の過程が描かれているのです。
このように、キリスト教会は、その本質において、与えられた神の恵みを多くの人々と分かち合いながら前進する群れであり、その恵みと光を内側にだけ閉じ込めておいてはなりません。キリスト教会は、協力して宣教、証をし続ける存在でなければなりませんし、その宣教の使命を忠実に正しく果たす時に初めて本来の姿、健全さと生命を保つことができるのだと思います。
ホレンコの友 2012年5月号 「エマオの途上にて」(ルカ24:13〜32)
         
         日本バプテスト連盟 リビングホープバプテスト教会牧師
                                    三宅真嗣

キリスト教は、関係性の宗教だと言われています。キリスト教では、人がどんなに聖書を読み込んで知識を得ても、山にこもって断食しても一人では成立しません。復活の主イエスは、エマオの途上にある旅人と再び出会い、関係を築かれました。
主イエスの突然とも思える十字架の死は、弟子たちにとって、受け入れがたい出来事でした。日も暮れかかった夕方、二人の弟子は都エルサレムから離れ、目的のない旅路にいました。エマオへの道は、悲しみ、失望、恐れ、戸惑いの道です。そんな時、主ご自身が彼らに近づいて、一緒に道を歩まれました。ところが、彼らは、その人が主イエスであることに気が付きませんでした。どうして、彼らは、聞き馴染みのある声を聞き、身振りなど、間近で見ているのに、その方がイエスだと認めることができなかったのでしょうか?心の中に固定観念があると、目の前にある事実を認めることができないことがあります。この二人の弟子たちの心の中にあったのは、「先生のご遺体は布に包まれ、岩盤をくりぬいて作った墓の中に安置されている。その墓の入り口を大きな石が塞いでいる。」そんなイメージだったはずです。さらに、彼らを困惑させる問題が降りかかってきました。それは、愛する先生のご遺体がなくなっていることでした。しかし、彼らの愛する先生イエスは死から甦り、彼らの目の前にいたのです。この二人の姿に滑稽さを感じますが、私たちは、彼らを笑うことができないのではないでしょうか?気分が沈むことがあり、喜ぶべきことを喜ぶことができないことはありませんか?宗教改革の偉大な指導者ルターも、ひどく落ち込むことがありました。ある時、部屋に閉じこもって、暗い顔をして、頭を抱えて悩んでいたところ、ルターの妻カタリーナは、喪服を着て、ルターの部屋に入ってきました。ルターは妻の姿を見て、「どうして喪服を着ているのか?」と尋ねると、カタリーナは「神様のお葬式です」と静かに答えました。ルターは「馬鹿なことを言うな。神様は死なない」と叱ると、カタリーナは「では、どうしてあなたはそんなに落ち込んでいるのですか?」と答えたそうです。
主イエスは死に勝利し、その勝利を私たちにプレゼントしてくださいました。これほどの大きな喜びは他にはありません。聖書を通して、勝利の事実を確認し、否定的な思い、敗北感、恐れの心を、喜びと平安に変えられてゆきましょう。
ホレンコの友 2012年4月号 「条件を付けないで従う」
                             
             日本キリスト教団岩内教会牧師 平 宏史

しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 列王記下 5章13節

 イスラエルの北方にあるアラムの将軍ナアマンは、王に信頼され尊敬されていた勇士でした。しかし、ナアマンは重い皮膚病で苦しんでいました。彼の病気に助けの手を差し伸べたのは、イスラエルから捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召し使いとして働いていた少女でした。少女は「サマリアの預言者のところに行けば、病を癒してもらえるでしょう」と告げます。この知らせに一条の光を見いだしたナアマンは藁にもすがる思いで、たくさんの贈り物とアラムの王からイスラエルの王にあてた手紙を持って、イスラエル王の所に出かけました。手紙を受け取ったイスラエル王は、「アラム王はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ」と取り乱します。預言者エリシャは、イスラエル王が困っているのを知ると、助け舟を出しました。「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」早速エリシャの家を訪れたナアマンは、エリシャが自分の体の悪い所に手を置いて治してくれるとばかり思っていました。ところが、エリシャが家から出てこないばかりか、出てきた召使まで奇妙な指図をするのです。「ヨルダン川へ行って、七度体を洗いなさい。」この風変わりな治療法は、誇り高いナアマンのプライドを傷つけました。彼は激しく憤ります。私たちも同じ様なことをするのではないでしょうか。救われたいと心から願ってはいても、プライドにじゃまされて、素直に神の言葉に従えないことがあるのではないでしょうか。ナアマンの怒りを和らげたのは彼の家来たちでした。家来たちは、「問題の解決を求めてすでにプライドとは無縁の旅をしているのだから、今更もう一つプライドを捨てても、何ほどのものでもないではないか」と言うのです。ナアマンがなるほどと思い、このばかばかしい(と思える)指示に従った時、問題は解決し、彼の病は癒されました。いっさいのプライドを捨てて謙遜になること。これが神の恵みを受ける条件でした。
ホレンコの友 2012年3月号 「試練に耐える道を備えてください」
 
                      
          日本キリスト教団無任所教師 相澤眞喜

 2011年3月11日の東日本大震災から1年がやってきます。多くの尊い命が失われ、生活の場である住まいも奪われ、仮設住宅で暮らす人々がいます。また、福島第一原発事故で避難生活を余儀なくされ、放射能が人体に及ぼす影響で不安の日々を過している人々がいます。
 わたしはこの1年、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)のみ言葉を覚えて祈り続けています。
 さて震災の後、わたしはすぐ聖書のパウロとシラスのフィリピでの出来事を思い浮かべました(使徒言行録16章11〜40節)。パウロがフィリピで伝道した時、町を混乱させているという理由で捕らえられ、鞭打たれ牢に投げ込まれました。真夜中ごろ、突然大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣をぬいて自殺しようとしました。パウロは「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と言いました。看守は「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」と問うたとき、二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と言いました。この後、看守も家族の者も洗礼を受けました。
 わたしごとになりますが、今から67年前、1945年8月15日の日本の敗戦によって、わたしとわたしの家族はすべてを失いました。当時、わたしは樺太(今のサハリン)の眞岡に住んでいました。敗戦により着のみ着のまま17日の朝、母ときょうだい4人が眞岡から貨車に乗り大泊に着きました。夜、最後の引揚げ船に乗り、甲板の筵の上に横になり、稚内に着きました。稚内沖で、別の引き揚げ船が魚雷で沈んで行くのを見ました。稚内では、倉庫のようなところに何家族か一緒に生活しました。8月20日のソ連軍の侵攻により、父と長兄は亡くなりました。また、やっと引き揚げてきた妹は赤痢で死にました。この時は、日本中が戦争の悲惨さの中にあったのです。わたしは戦争の愚かさと人間の無力さを感じました。その後わたしとわたしの家族は教会に導かれました。
 今は、受難節です。神の子イエスの十字架の苦しみは、わたしたちの罪の救いのためです。わたしは、パウロが教えているように、試練と共に逃れる道(救いの道)を備えてくださると信じています。また苦難はわたしたちに生きる力をあたえてくださいます。そこから新しい希望に生きることができるのです。
ホレンコの友 2012年2月号      「宝 物」
          キリスト兄弟団札幌栄光教会牧師 笠見 旅人     
 
 学生時代に、研究室の先生に頼まれて、市民ホールの予約に並ぶバイトをしたことがあります。アマチュアオーケストラの講演のための予約であったと思います。講演日の一年前に、事務所前に並んで朝一番で予約するというものです。私は親友と一緒に日が暮れるまで暇を潰してから、寝袋を持ってホールに行きました。ところが、事務所の前には、テントを張って夕食の支度をしているグループがすでにいたのです。予約は先着順ですから、私たちに勝ち目はありませんでした。友人と二人、肩を落して帰路につきました。私は終電もないので研究室に戻ったのですが、鍵を忘れてしまいました。結局、真夏の星空の下、やぶ蚊に顔を襲われながら、バイト代も大切な時間も無駄にした、自分の見通しの甘さを嘆きながら寝る羽目になってしまったのです。正月のニュースで、初売の福袋に行列している人々を見て、そんな昔の事を思い出しました。多くの人々がお目当ての商品を手に入れるために、完全装備で行列を作っています。(コタツを用意している人もいました。)夜が明けて、念願の商品を手にいれた人々の喜びに満ちた顔を見ていると、見ている方もなんだか嬉しい気分になってくるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、素晴らしい価値のある真珠を求める商人の姿を、たとえとして語られました。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13章)全財産を売り払ってまでも手に入れる価値のある真珠。まさに最高の宝物です。キリストは、人にとってその最高の宝が天の御国であると語っておられます。それは私たちがこの地上での人生において、真剣に追い求めなければならないものなのです。そしてイエス・キリストは、十字架の贖いによる罪の赦しを通して私達に、この世の何にも勝る素晴らしい宝を信じる者に与えてくださっているのです。今日、私達にとってこの御国に入ることができるという福音が、自分自身の最高の宝になっているでしょうか。時々、クリスチャンが自分たちの持っている宝の価値を忘れてしまっているのではないかと思うことがあります。私達がそれをしっかりと握って、喜びを持って生き続ける時に、世の人々はこの宝の本当の価値に気がつくことができるのではないでしょうか。もう一度、私たちは自分の持っている最高の宝の価値を覚えることをさせていただきたいと思います。
 ホレンコはこの最高の宝を電波に乗せて、多くの人々に送る働きを続けてきました。私たちはこの宝の価値を真に知る者として、これからも送り続けることをさせていただきたいと願っています。そのためには、皆さんのお祈りとご協力が必要です。多くの人々が、この素晴らしい宝に出会える機会が与えられるために、皆さんの祈りとご支援をよろしくお願いいたします。   (ホレンコ幹事)
ホレンコの友 2012年1月号  「慰めよ、わたしの民を慰めよ」 
                                      イザヤ書40章1節
                  
日本聖公会司祭 上平仁志
 
 イ
スラエルの民はおよそ半世紀、バビロニアという国に捕囚にされていました。これは紀元前538年、ペルシャの王クロスによって解放されたイスラエルの民に、第二イザヤが語りかけた言葉です。彼らはイスラエルの神ヤハウェに背き、数々の罪を重ねた不信仰の罰として捕囚にされていました。
 しかし今や、神は預言者の口を通して「エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と、捕囚の民にその服役がすべて終わったことを宣言されました。罪が赦されたことは、新約聖書においてイエス・キリストによって宣言された福音の先取りです。
 すべての罪は償われ、服役は終わったのだからもう悲しんではいけない、わたしを信頼し、わたしから慰めを受けなさいというのです。ここで第二イザヤが語っている「慰め」とは、「悲しみ」や「悔い改め」と同義語で、「救い」という意味と同じです。預言者にとって本当の救いとは、神様から慰めを受けることなのです。
 ところで、昨年の3月11日東日本を襲った大震災はもはや取り返しのつかない被害と、どんな言葉をもっても言い尽くせない悲しみと苦痛を被災者に与えました。国や関係者や殊に福島原発の関係者たちは、想定外の出来事であったと言いました。第二次世界大戦にしても東日本の人々の被った人災にしても、その過ちに気付くのはしばしば取り返しがつかなくなってからです。
 大震災の後、さまざまな言葉が巷に流れました。心ない政治家は、「天罰だ」と言い、また関東大震災の時もある宗教家は、「神の審きだ」と言いました。しかし、大震災は周期的に起こる自然現象であり、天罰や神の審きとは関係ありません。その結果起こった被害の大きさは、過去の教訓を学んで来なかった人災です。その事の悔い改めなしに神様の慰めを受けることは出来ないのではないでしょうか。