ホレンコの友2011年12月号     
                      「神への信頼のゆえに」  
      
「神にできないことは何一つない。」 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。
             お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
                    ルカによる福音書1章37節〜38節
  
                              日本キリスト教団岩内教会牧師 平 宏史

 マリアは、婚約はしていましたが、まだ結婚はしていませんでした。婚約している女性が、婚約者の子どもではない子どもを産むようなことがあれば、ユダヤの掟(律法)に従って石で打ち殺される運命にありました。 無事に生まれたとしても、その生涯は悲惨なものとなります。「これは神の力によってです」と言っても、誰が信じてくれるでしょうか。 加えて、出産の労苦、育児の悩み、そして将来どんな運命が待ち受けているのか。 すぐ「ハイ」と言えるわけがありません。おそらく悩んだこ
とでしょう。そのマリアに「お言葉どおり、この身になりますように」と答えさせたのは、ただ神への信頼でした。
 一方、婚約者のヨセフも悩みました。婚約相手の女性が身重になった。しかし自分には覚えがない。こんな時男性は激怒するか、半狂乱になるでしょう。そして相手の女性に当たり散らし、憎しみを抱くかもしれません。
 ヨセフは正しい人でした。何もなかったようにマリアを受け入れることも出来ませんでしたが、マリアが殺されることも願いませんでした。 彼はマリアを助けるために、婚約は無かったことにしようと決心しました。そうすればマリアの命は助かり、誰かは知らないけれども、結婚することができるからです。
しかしヨセフも天使の告知を受けます。 そしてマリアを受け入れます。彼はその時マリアが引き受けることになる全てを自分も引き受ける決心をします。
結婚とは、良いことばかりを相手から受け取ることではありません。 自分の重荷を相手に負わせることであると同時に、相手の重荷を自分のものとして引き受けることです。つまり良い時ばかりの夫婦ではないのです。ヨセフがこの決心をしたのも神への信頼のゆえです。
ホレンコの友2011年11月号
    
 「私は誰が明日をつかんでいるのか知っている」
                                   日本キリスト教団真駒内教会牧師 田中文宏

今年も、東日本大震災をはじめとして国の内外で多くの災害が起こり、沢山の貴い人命が失われました。また、連日のように暗いニュースに心が痛みます。しかし、このように暗い闇の現実の中にあっても、神様がしっかりと私たちの手を握っていることを心に刻みたいと思います。そこに神様と私たちの新しい契約の証があります。
 数年前、アメリカのニュージャージーで宣教師として教会に仕えていた浅田容子先生より月報が届き、とても心に残るお話が紹介されていました。アラバマ州のマイク・ダウデイーという人が経験した出来事です。
 マイクは、バージニア州に近いテネシー州のブリストルで事故による交通渋滞に巻き込まれました。車の外で待っていると、反対車線のトラックのジョーとアンナという高齢の夫婦から声をかけられました。この夫婦は70歳前後でした。マイクたちが喉が渇いたことをもらすと、この夫婦は持ち合わせの飲み物やツナのサンドイッチをご馳走してくれたのです。マイクが気づくと、この夫婦のトラックはミシシッピ・ナンバーでした。実は、この夫婦はハリケーン・カトリーナによってわずかの所持品を除いてすべてを失ったのです。幾枚かの写真と重要書類とわずかの衣類、そしてがれきの中から捜し出したおじいさんの愛用の古時計と陶器と銀の食器だけをトラックに積んで、バージニアにいる子どものところへ行く途中でした。マイクたちは、飲み物とサンドイッチ代を払おうとしましたが、この夫婦は受け取ろうとせず、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と答えたのです。
 二人はジョーが昔に建てたブロックの壁越しに避難して自分達の所持品や家がハリケーン・カトリーナの暴風で消えていくのを見ていました。その間ジョーは片手でアンナの手を握り、片手は神様をつかんでいたと言いました。トラックと彼ら二人はカトリーナから無傷でした。サンドイッチを作りながらアンナは歌っていましたが、その歌のタイトルは「私は誰が明日をつかんでいるのか知っている(I know who holds tomorrow)」という古いゴスペル・ソングです。コーラスのパートは次の通りです。「明日の多くのことは、私には分からない。しかし私は誰が明日をつかんでおられるかを知っている。そして誰が私の手を握っておられるか知っている。」
 暗闇の現実の中で、私たちの手をしっかりと握っている神様の導きに従い、希望を失うことなく共に歩みたいと思います。
           (ホレンコ幹事)
ホレンコの友2011年10月号
           「ホレンコの働きを覚えてお祈りください」

                                日本キリスト教団小樽聖十字教会牧師 小栗昭夫

2011年度も、もう半分が過ぎました。今年度は東北大震災のために日本中が大きな痛みと悲しみを担いながら歩み出しました。しかし、半年経った今もなお解決への道筋が定まらない中、更なる忍耐と祈りをもってみんな一生懸命前に向かって歩んでいます。こうした中にあって、私たちホレンコに与えられている役割はとても大きいものがあると思わされています。それは、絶えず全道に向けてみことばによる慰めと励まし、いやしと回復へのメッセージを発信し続けることではないのか、との思いなのです。
 今、皆さまが手にして下さっているこの機関紙の4ページ目には、福音放送番組のご案内が毎月掲載されています。全道どこにいても聞くことが出来る「喜びへの扉」(HBCラジオ)と、札幌圏のみではありますが、二つのFM局から流されている「光の泉」。そして、日本全国、否、世界中どこからでも24時間聞くことの出来る「テレホンメッセージ」です。ホレンコの働きは今年で52年目に入りましたが、それらはすべて全道の皆さまからの貴いご献金によって支えられながら継続して参りました。
 しかしながら、諸般の事情が重なり合う中で、それまで一年365日流されていたラジオ伝道放送も6年前から土・日の二日間のみになり、5年前からは日曜日の朝のみに変更することになりました。そのような事情にあっても、私たちは全道の隅々にみことばをお送りしたいとの設立当初からの願いと使命に支えられながら祈り合い、知恵を出し合って様々な方策を検討してきました。札幌、室蘭、北見(現在は室蘭のみ)のブライダルへの応援協力やポストカード、テレホンカード(現在はポストカードのみ)の製作販売、あるいはご葬儀の時に用いる御礼用の品物の取り扱いなどの事業もそうした中で行われて来ました。
 それでもまだまだ運営面に於ける十分な支えには追いつかない現状にあり、全道で活動しておられるおよそ20の教派教団の中から送られて来ている幹事の皆さんが一同に集って、今後ともホレンコの働きを通して豊かな福音の実が結ぶことを願いつつ祈りを合わせています。
 今後とも、皆さまのお祈りによるお支えと共に、まだ聖書の福音に触れていない沢山の方々にご案内頂ければ、私たちにとっても大きな励みとなります。そしてそこから更なる前進への知恵と希望が与えられます。皆さまからの様々な形での応援をこれからもどうぞ宜しくお願いいたします。
        (ホレンコ幹事長)
ホレンコの友2011年9月号
 
 「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう
                     日本福音キリスト教会北栄キリスト教会牧師 松元 潤 

 ある夏の休暇中、夫婦で十勝平野に車を走らせました。観光マップにない地を思いのままに車を走らせ、見渡す限りの草原の中に、酪農を営むわけでもない、ポツンと建つ一軒の住居を見かけました。近隣に他の家が見当たらないここでの生活を想像し、この家にキリストの福音は知らされているのだろうか、と思いました。ふと、私の脳裏に30年前の場面が浮かびました。それは、重い引き戸を開けて出てきた初老の男性に「私たちは東京から来ました、○○教会のものですが、イエス・キリストという名前を聞いたことがありますか?」と、1枚のトラクトを渡した記憶です。教会のキャラバン伝道で長野県木曽福島から山を三つほど超えた山間の村を訪問した時のことでした。家と家が数百メートルも離れている村の中を歩き回り、一枚、また一枚とトラクトを配りながら、村の人に声をかけました。すでにテレビやラジオが普及していた1980年代であったにもかかわらず、誰もイエス・キリストの名を知らないことに私は驚いたのでした。当時の日本の社会を考えるなら、クリスマスともなれば、誰もがイエス・キリストの名を1度は耳にしているはずだと、私は勝手に思い込んでいたからです。知らず知らずのうちに、クリスチャン中心の傲慢な世界観が出来上がっている自分を恥じ、改めてキリストの福音を伝えることにおいて素朴な熱心を持たなければ、と思わされた経験でした。雄大な十勝平野の果てに見た、一軒の小さな家の光景に、伝道者としての原点に帰らされた、あの時の記憶が甦ったのです。30年の歳月を経て日本もネット社会となり、どんな所に住んでも、同じ情報を得る手段を持つようになりました。しかし今や、聞くべき情報を選び取ることが困難になる程の情報過多社会です。そして、情報を得ることがあまりにも簡単になった故に、人間が密集して住むマンション群を所有する都市部においてさえ、人と人の隔たりは広がっています。人に聞く必要がない社会は、孤独をもたらします。しかし、福音のことばと言う、この情報によって人は孤独になることはありません。つながるために愛し合うこと、共に生きるために赦し合うこと、何においてそれができるのかを明確に指し示してくれるからです。福音放送の電波のことばは、人の耳から心に入って、社会の垣根に分け入り、いつの間にかできてしまった互いの隔ての壁を打ち壊します。文字通り、いのちを救う、キリストの福音が、電波に乗って届けられる時、そこに共に伝える者として生きる自らを覚える者でありたいと思うのです。
「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)
ホレンコの友2011年8号         「生きよ」
                        日本キリスト教団札幌北光教会伝道師 松村さおり

「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ」(エゼキエル書16章6節)

 東日本大震災から4ヶ月が経ちました。津波の被害は広範囲に渡り、各地の現状を把握するだけでも困難です。そして、福島第一原発事故も深刻な問題です。
 私は、4月18日に大船渡教会に行ってきました。大船渡教会までの道沿いの家は外見上、被害がほとんど見えず、本当に地震があったのだろうかと思うほど穏やかでした。また、大船渡教会自体も前年に建て替えをしていたのが幸いして、被害は礼拝堂のひびのみで、その他は大丈夫だということでした。しかし、大船渡の市街地、そして陸前高田に行くと、想像以上の被害に言葉を失いました。
 特に陸前高田は被害がひどく、町の一部が被害を受けたという感じではなくて、町がひとつ消えたと言った方が正しいのでは・・・と思うほどでした。「町の5分の4は流されてしまった」と地元の人が言いました。地面の上にはポツポツと布団や、アルバムや、どこかの会社のファイルが落ちていましたが、たくさんの人々がここで生きていたという実感は持てませんでした。あるはずのもの−建物も、道も、木も−何も「ない」のです。
 大船渡教会の信徒さんとお話しているうちに、「本当に、どうしてこう試練ばかりあるのだろうか」という話題になりました。するとある方が「これが」生きてるってことさ」とおっしゃいました。この方たちはたくさんのいのちを見送りながら、しかし今あるいのちを懸命に生きようとしておられるのだとということを改めて感じた瞬間でした。
 どうしてこのような悲しく苦しいことが起こるのか、神様の御心はどこにあるのか、私たちはキリスト者として神に問わずにはいられません。答えなどすぐには与えられないかもしれません。それでも信じたいのは、この困難な状況にあっても「生きよ」と呼びかけてくださる神がいるということです。「生きよ」という声に支えられながら、共に生きる方法を私たちは探っていかなければならないと思うのです。
ホレンコの友2011年7号     「何かをしなさい」(Do something)
                                       救世軍札幌小隊長 徳永幸次郎

今から百数十年前、救世軍の創立者ウイリアム・ブースは、イギリスの中で最も苦しむ人たちが住んでいた東ロンドンの地域に自分の子どもを連れて行って、一言「何かをしなさい」(Do something)と言いました。この言葉は、災害が起こったときの救世軍の行動の基本理念となっています。行動にもいろいろありますが、最も大切なことは、具体的な必要のために祈るという行動です。わたしたちは祈りしかできないではなくて、祈りをささげる使命が神から与えられています。いつでもどこでも苦しんでいる人のことを覚えて祈りたいと思います。
 次の行動は、苦しんでいる人を決して忘れないという行動です。東日本大震災の被災地では、未だに避難所で不自由な生活を強いられている人がいます。また、仮設住宅に入居しても、働く場所を失い、将来への不安を持つ人もいます。家は無事でも、家族や親戚を亡くした人、その故郷から離れなければならない人がいます。被災地のみなさんとその関係者は、3月11日の大震災以来、大きな重荷を負って苦しんでおられます。しかも、その重荷は、時間だけでは解決できないことが山ほどあります。元気そうに仕事をしておられた人も、子どもを津波で亡くされたとのこと、笑顔の裏に、生きるための大きな戦いがあることを知らされました。わたしたちは、他の人が忘れても、苦しんでいる人がいる限りどこまでも覚えて祈り続けたいと思います。
 そして、祈りと決して忘れないとの決心に立って、必要な支援を具体化する行動を起こすことが大切です。今回の震災のために救世軍では、各地からの支援を受けて、被災地の救援活動を行っています。北海道からも物資の供給や炊き出しを行なってきましたが、これからも定期的に状況に合わせ、必要を探りながら、被災地を訪ね支援していくことになります。阪神淡路大震災の時に、半壊の会堂で救援活動を続けたことがありましたが、そのときに一番力となったのは、被災者のために祈り続けてくださる人、被災地を忘れないで被災者の話しを聞いてくださる人、何度も訪ねて支援を続けてくださった人でした。わたしたちクリスチャンは、神の偉大な力によっていろいろな行動をすることが出来ます。わたしのできる行動を神に祈って具体化したいと思います。わたしたちの周りには、苦しんでいる人、悲しんでいる人がたくさんいます。今、わたしにできる「Do something」を実践したいものです。
 マタイ25:40 ・・・『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
ホレンコの友2011年6号「東日本大震災のための嘆願 
                      
                                 日本聖公会新札幌聖ニコラス教会 牧師 雨宮大朔

司式者 慈悲の神、天の父よ、東日本大震災によって命を失った人びとの死を悼みます。
      どうか主の深い慈しみのうちに、この人びとを安らかに憩わせてください。また愛する者を失って悲しむ人びとが
      み力により、あなたの愛の慰めのうちに生きることができますように。
会 衆 主よ、お聞きください。 
司式者 この震災によって離散させられた人びと、住まいを失った人びと、傷つき病のうちにある人びと、弱い立場に置か
     れている人びと、ことにしょうがいのある人びと、ご高齢の人びと、外国からの人びとを愛のみ手をもって守り支え
     てください。
会 衆 主よ、お聞きください。
司式者 悲しみ、悩み、苦しみ、孤独のうちにある人びと、希望を失いそうな人びとを慰め、生きる勇気と希望をお与えくだ
     さい。
会 衆 主よ、お聞きください。     
司式者 今、避難生活を余儀なくされている人びとや不自由な生活を強いられている人びとに、必要な保護が与えられま
     すように。
会 衆 主よ、お聞きください 
司式者 震災復興のために働くすべての人びと、ことに危険な作業に従事する人びとを導き支えてください
会 衆 主よ、お聞きください。。
司式者 わたしたちが心を合わせて祈り、いつも共におられる慰めの主のみ姿を見出すことが出来ますように。
一 同 これらの祈りを主イエス・キリストのみ名によってお献げいたします。アーメン



日本聖公会で、今、用いられている嘆願による祈りです。
 どなたでも、ご一緒にお祈りください。
ホレンコの友2011年5号    「決してやみの中を歩むことはない」 
             
                               福音バプテスト宣教団北広島チャペルキリスト教会 牧師木村恵一

あまりにも惨い爪痕を残した東日本大震災。その傷跡はその地域とそこに住む人々の心を深く抉ったままとも言えると思います。 
愛する家族を失い、家も仕事も住む町も失って、それ故に悲しみは果てしなく深く、ただ今日生きるだけで精一杯、明日の事などわからない…まさに惨憺たる暗闇の状況が被災者を覆っているのではないでしょうか。
しかし、そのような闇を吹き払うかのように、希望を持って気丈に生きようとしている人も少なくはありません。その様な人々は、本当に立派で尊敬されるべきだと思います。けれども、依然と悲しみと不安の渦が人々を飲み込み続け、その暗闇が被災地にある人々を覆い尽くしているという状況もあるわけです。
だからこそ伝えたいのです。私達人間をあらゆる苦しみから救うために人となり、十字架にまでかかり、復活された私達の救い主イエス様を。このお方は言われます「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)。真の神にしてこの世を救いの光で照らすこのお方を信じるなら、その者は「やみ」の中を歩むことがないと、この光なる神ご自身が確かに約束されるのです。
「やみ」とは…まさしく人の抱える悲しみ・不安・恐れ、その暗闇の事です。イエス様を信じる者は、その暗闇から救われて、救いの光の中を歩んで行くことができるのです。信じるなら必ずそうなる!というのが神と聖書の約束です。
悲しみの現状に沈む人々が、その暗闇の只中で、救いの光なるイエス様を見出して、希望と喜び溢れる光の中を歩むことができるようにと祈るばかりであります。
ホレンコの友2011年4号         「新しいものがいいものか?

                                 日本キリスト教会札幌白石教会牧師 斎藤義信
 
4月は多くの人にとっては新しい始まりの時です。教会も4月から新しい年度に入るところもあると思います。
 世界のキリスト教国ではクリスマスを迎えるアドベントから新しい年が始まると考えられて来ましたが、実際にはアドベントから始まるカレンダーは現在では使われていません。
 最近市販のカレンダーは、主イエスの復活された主の日(日曜日)が 週の始めに来ているカレンダーが少なくなって来ました。この世の風潮に流される事なく、クリスチャンは主の復活された主の日(日曜日)を安息日として、一週間の最初に礼拝を守って、礼拝から一週間の日常の生活に押し出されていくサイクルを大事にしたいと思います。
 今でもホレンコの歩みが継続されているという事はこの上ない感謝です。ホレンコの新しい歩みの上に、皆様の祈りと具体的な支えがまし加えられますように切に願っています。
 新しくされる事、リフレッシュする事は悪い事ではありません。しかし、気分を新たにする,環境を新しくする事で私たちが本質的に新しくされる訳ではありません。今年はテレビの放送の方式が新しくされるので、国民あげて新しいテレビに買い変えました。日本という国はいつも消費していないと国が成り立っていかないので次々に新製品が出され、無理矢理にも買わされます。自動車も電気で走る新製品が次々に売り出されています。新製品と言っても以前のものが改良され応用されてい
て、本質的に新しくなった訳ではありません。私たちが新しいものは良いものだと思い込まされているだけかもしれません。
 パウロは、コリントU5:17で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」といっています。イエス・キリストの十字架と復活を信じて、イエス・キリストを救い主として受け入れる事によって、私たちが本質的に新しくされると言われています。今の時代こそ、私たちが本当に新しくされる事の意味を真剣に考える必要があると思います。
        (ホレンコ幹事)
ホレンコの友2011年3号       「天に、宝をたくわえなさい」
                                日本キリスト教団真駒内教会牧師 田中文宏
 
 昨年の4月の末に、真駒内教会の宮岸忠孝兄が91歳で安らかに天に召されました。宮岸兄は、13年間ホレンコの事務長として北海道のマスコミ伝道に奉仕されました。事務長を退かれた後も、ホレンコの働きを祈りに覚え、支援を惜しみませんでした。
さて、宮岸兄は、1919年に赤平で生れました。しかし、生後間もなくお母さんが亡くなられ、祖母に育てられることになります。幼い子どもにとって、お母さんの愛にまさる愛はありません。このことが後年、宮岸兄を神の愛へ導く大切な契機になりました。
学校を卒業後、宮岸兄は旧国鉄に入社しました。そして、同じ職場の一人のクリスチャンに導かれ、教会の門をくぐったのです。しかし、決して自分から求めたのではありませんでした。そこには、魂の深いところで真実の愛を求めている一人の少年を救わんとする神の一方的な恵みの導きがあったのです。こうして1934年のクリスマス、札幌で洗礼を受けました。
宮岸兄は、常日頃より健康には人一倍留意をされる方でした。私もヨーグルト健康法を勧められ、毎週のように牛乳パックのヨーグルトをいただいたことを懐かしく思い出します。実は戦時中、宮岸兄は徴兵検査を受け、筋骨薄弱ということで衛生兵として従軍することになりました。その結果、人の命を奪う戦いの最前線ではなくて、負傷者や命を助ける仕事につくことができたのです。ここにも神様の不思議な計らいがありました。そして満州から日本へ帰り、美唄の炭鉱病院で働いていたとき、人生の最良のパートナーである美代子姉と出会い、結婚されたのです。
ところで敗戦後、日本は大変なキリスト教ブームを迎えます。多くの日本人が、まさに根本的な人生の価値観の転換を迫られたのです。宮岸兄が、クリスチャンとしての確固とした自覚をもって生きるようになったのは、敗戦後であります。それから65年、平和を愛し、福音の真理に生きる信仰の確信は決して揺らぐことはありませんでした。宮岸兄は、美唄教会、苫小牧弥生教会の形成に深く関わり、保健所に勤務するようになり、道内の各地を転勤してまわりましたが、八雲教会、余市教会などでも忠実な教会生活を続けました。退職後は、ホレンコの事務長として北海道のマスコミ伝道のために奉仕し、真駒内教会で忠実な信仰生活をまっとうされました。
宮岸兄の愛唱聖句の一つは、マタイによる福音書6章20節です。「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(口語訳)「天に宝をたくわえなさい」との主イエスの言葉は、宮岸兄の信仰の生涯を導いてきました。天に宝をたくわえることは、自分の命を神のみ業のために捧げる生き方でもあります。宮岸兄にとって、ホレンコの働きのための祈りと支援は、まさに天に宝をたくわえることであったのです。そこには、朽ちるこの世の宝ではなくて、決して朽ちることのない永遠の宝の祝福が約束されています。宮岸兄は、今も天国でホレンコの働きのためにとりなしの祈りを捧げてくださっていることを信じて疑いません。
        (ホレンコ幹事)
ホレンコの友2011年2号      「153匹の魚」
                              日本キリスト教会 札幌桑園教会牧師 河野行秀

私が通ったある模擬店があります。アドバイザーは、20代後半の青年です。私は彼のトークに感心しました。わずか3か月間に500名を超える人を集めました。彼は気負うこともなく、「どうぞ、皆さん、宣伝をよろしくお願いします」と、言っているだけです。これを教会の伝道と比較して考えてみました。私は札幌桑園教会に来て10年になりますが、依然と50名くらいの礼拝出席です。何が違うのでしょうか。
 いくつか思い当たることがあります。
まず売り手の課題です。つまり牧師の責任になります。あの店は、話をしている人間が面白い。話題が豊富です。よく勉強しています。お客さんの名前をほとんど覚えています。顔を合わせると、すぐに「何々さん」と声をかけます。正確にです。よくもこんなに多くのお客さんの名前を覚えられるものだと感心します。
次に商品です。私たちの商品はキリストです。説教はキリストを紹介することだと言われます。彼の紹介する商品がよい。私たちの伝道も良いものでなくてはなりません。もちろん、「福音」ですから、良いものです。良いものなのに、良いものとして紹介しなかったら、お客さんは、それ以上関心をもちません。イエス様はすばらしいと、本気で言いましょう。
最後にお客です。信徒の課題です。お客さんが、次から次へと友人、知り合いに宣伝していることです。まさに、口コミです。札幌桑園教会では、チラシをつくり新聞に折込をすることもあります。しかし、口コミに勝るものはないですね。どうぞ、皆さん、宣伝をよろしくお願いします。「教会へ行きましょう」「礼拝はいいですよ」と声をかけてください。
 イスラエルのガリラヤ湖の北岸にタブハと呼ばれるところがあります。ヨハネによる福音書第21章の舞台になるところです。タブハとは、7つの泉という意味です。付近には今も泉がわいており、ガリラヤ湖にきれいな水を注いでいます。そのような場所ですから、魚も多く集まるところです。復活された主イエスは、炭火をおこし、弟子たちが魚を持ってくる準備をすでに整えています。しかし、不漁でした。主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われます。弟子たちが言われるとおりにすると、153匹の魚が網にかかりました。そして、主イエスと弟子たちは復活の食事をします。神学者たちは、この153という数について、いろいろな説明をしています。私はこれを霊的に受け止めます。札幌桑園教会にも、153人の人々が集まるようになると幻を描いています。
ホレンコの友2011年1号    「主を待ち望みつつ」  
                           
 日本キリスト教団札幌北部教会牧師 久世そらち

新しい年、2011年が始まりました。21世紀もすでに最初の10年が過ぎたことになります。
 こどものころ、「21世紀」ということばにはわくわくするような響きがありました。月に人類を送ったアポロ計画、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博、コンピュータの実用化などが報じられるたびに、こども心にもすばらしい未来が待つ21世紀を思い描いたものです。もちろん、東西冷戦や公害問題といった厳しい現実も知りましたが、それでも、そうした20世紀の問題を克服して前進する人類の知恵と能力が期待され信じられていた時代でした。 
 しかし、実際の21世紀は、世界を揺るがした9・11事件に始まり、次々に戦争や武力衝突、軍事行動の絶えない時代となりました。科学技術は確かに想像を超えて発達しているものの、それが人類全体にいっそうの幸福をもたらしているとはとうてい言えません。それどころか、人間社会の発展が、地球環境の破壊をもたらしている危機感が日ごとにつのっています。日常生活においても、夢と希望の21世紀どころか、明日の希望をも見失うような厳しさに閉じ込められ、息苦しさが深まっていくようです。
 この10年の間に、「21世紀」は、かつて望みみていたような輝きを失ってしまいました。今、これからの時代に、どのような展望と希望を見出すことができるのでしょうか。
 私たちは、この新しい年の始まりを、クリスマス、主キリストの到来と共に覚えます。伝統的な教会の暦では、1月6日の「公現日」までがクリスマスの日々とされています。主の到来の喜びと希望の中で、新しい年の始まりをも覚えるよう示されています。
 新しい年を、不安や恐れをぬぐうことができない暗さの中で迎えているとしても、「光は暗闇の中で輝いている」のです。クリスマスは、終わってはいないのです。私たちは、主の到来をなお待ち望んでいます。人類の知恵と力にはもはや期待できないとしても、やがておいでになる主キリストにこそ、私たちの期待、希望があります
 主のおいでになる時を目標として仰ぎながら、新しい時に踏み出しましょう。暗く厳しい時代だからこそ、「マラナ・タ/主よ、きたりませ」と絶えず祈り、主にある希望によって絶望と恐れ、無関心とあきらめをしりぞけつつ、新しい日々を歩んでいきましょう。